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3.『Kanon』の「構造」
では、『Kanon』の「主題」と「様式」、ジュヴナイルファンタジーは、『Kanon』の「構造」にどのような影響を与えたのでしょうか。
■ ジュヴナイルの「構造」
一つは、ジュヴナイルという「主題」が与えた『Kanon』の「構造」です。
それは「別離→成長」のモデルです。『Kanon』では、「別離」の多くが「失恋」を意味します。代表的なのが、あゆの「死」による祐一の「失恋」です。逆に、「失恋」ではない代表例が、香理です。香里が失ったのは、栞という妹です。私は、『Kanon』が「失恋」の物語だと強調しますが、それは、ジュヴナイルで語られるべき「別離」の多くが『Kanon』では「失恋」であったことに基づくからにすぎません。大切なのは少年少女が「別離」の結果、「成長」したことです。その「別離」の内容たるイベントで失うものが恋人であろうが、妹であろうが、はたまたペットのジョンであろうが、かまいません。何らかの「別離」の結果、信じていた日常も変化すると云うことを自覚して、少年少女は大人へと「成長」するのです。「別離」は原因にすぎず、大切なのは何よりも「成長」という結果なのです。構造主義から見れば、「別離」は「成長」を生むためのイベントにすぎず、(もちろん、イベントとして実感できることが条件ですが)イベントの内容は問わないものだからです。私が『Kanon』を「失恋」の物語と称したのは、単に、「別離」の多くが「失恋」を描いていたからにすぎません。
では、何故ジュヴナイルにおいては、「成長」の前置として「別離」が要求されるのでしょうか。
簡単に説明すれば、「別離」が大人へ「成長」するための「通過儀式(イニシエーション)」だからなのですが(2.参照)、それでは解りにくい方も多いことでしょう。少し違う観点から説明してみます。それは、「成長」の前に、多くは「挫折」が必要だからです。人は、悲しみを乗り越えて強くなります。底にまで落ち込めば、後ははい上がるのみです。「はい上がる」=「成長」のためには、一度「底」=「挫折」が必要なのです。「挫折」こそ「儀式」「試練」なのです。「挫折」には悲しみが必要です。「別離」の多くが、悲しい現実であり、悲しい別れです。だからこそ、「成長」のためには、「別離」が必要なのです。
従って、ジュヴナイルの基本構造は「別離(悲しい現実)→挫折→成長」となります。
ただ、逆に、ジュヴナイルの「挫折」は必須条件なのかと言えば、実は、必須条件ではありません。「別離」は「通過儀式(イニシエーション)」であれば足りるのが、その理由であります。要は、少年少女が「儀式」「別離」を経て、「成長」すれば足りるのです。「別離」は「成長」のきっかけにしかすぎない以上、「成長」さえ描ければ、「別離」の内容は、実はどんなものでもかまわないのです。ただ、「別離」があったとき、人は「挫折」する事が多く、人は「挫折」したときに「成長」することが多いだけです(もちろん、そのまま、ダメになるケースも多いのですが)。だからこそ、ジュヴナイルの大抵に「挫折」が要求されるだけです。
従って、「絶望」とは、多くのジュヴナイルで採用されている「構造」にすぎず、必須条件ではありません。ただ、もっとも基本的な形であり、もっとも、作品の「主題」を伝えやすい「構造」を有しているのだと思います。「別離」から、いきなり「成長」を描いても、素直に共感できない場合も多いのでしょう。そこで、ワンクッションとして、「挫折」が要求されます。
■ ファンタジーの「構造」
一つは、ファンタジーという「様式」が与えた『Kanon』の「構造」です。
『ONE』のファンタジーとしての「構造」は、みなさまご存じのとおり、「消失→帰還」です。何故消えるのか。幼少の浩平が「永遠の世界」を望んだからです。何故帰ってこれたのか。現在の浩平が「ヒロインとの絆」「移ろいゆく現実」を求めたからです。どちらも、十分な説明を与えるものではありませんが、奇妙なまでに「納得」できるものでした。これが、『ONE』のファンタジーの「構造」です。
掲示板では時たま、『Kanon』は裏『ONE』であるとの主張が出てきます。『Kanon』は『ONE』のヒロインたちの視点を主人公祐一の視点に持ってきた話です。消えゆく者を「待つ」悲しみ、切なさ、つらさを描いた作品です。あゆは生き霊であり、本来消え去らねばならない存在でした。名雪は秋子さんの交通事故によって、「現実」から目を背けようとしました。栞は文字通り、死に瀕しています。舞は自殺を選びました。真琴も、まさに消滅します。彼女たちはすべて、「現実」から消えゆく存在です。そうでありながら、ヒロインたちの多くはエピローグで戻ってきたのです。あゆは植物状態から奇跡的に復活しました。名雪は祐一と共に歩むことを決意しました。栞も奇跡の生還を果たしています。舞も再生しています。特殊なのは真琴シナリオです。真琴が「帰還」したかどうか、結局シナリオでは語られずじまいです。
『Kanon』は、その視点が変わっただけで、『ONE』の「消失→帰還」というファンタジーの「構造」としては、真琴シナリオを除き「基本的に」何ら代わりがないのです。
■ 「ねじれ構造」
ところで、ここまで読まれて、あれ、と思われた方もおいででしょう。
ジュヴナイルの「構造」とファンタジーの「構造」、一つの作品の中に二つの構造があることは、作品として破綻をきたさないのか。そうです。ここが、『Kanon』の「構造」の最大の問題点なのです。
『ONE』において消えゆく者は、主人公浩平そのものです。浩平の「成長」は、浩平の「帰還」によって完成されます。みさおの死を受け入れ、みさおがいる「永遠の世界」(虚)を拒絶し、みさおがいない現実に生きることこそ、浩平の「成長」にあたります。本当は、「永遠の世界」に浚われないことこそ、「成長」の証でしょうが、『ONE』が「神隠し」の民話である以上、一度は浚われるのが、物語の「様式」です。浩平は、どんなに努力しようとも、一度は浚われるしかないのです。それが、ファンタジーのファンタジーたる由縁です(※9)。それはすでに決められたことであり、拒絶は不可能です。だからこそ『ONE』では、帰還そのものが浩平の「成長」の証となるのです。ここで『ONE』の「主題」と「様式」が生む「構造」は、見事な調和を見せます。『ONE』は、ジュヴナイルとしても、ファンタジーとしても、高い完成度を誇ったのです。
一方、『Kanon』で消えゆく者はヒロインたちです。どう頑張っても一度は「永遠の世界」に浚われざるを得ない浩平と異なり、祐一はあくまで、現実の中で生きています。ヒロインたちとの悲しい「別離」を受け入れ、自分の「失恋」を自覚した段階で、祐一の「成長」は完成されます。それは、「失恋」という痛ましい「現実」を受け入れた証です。現実の中で生きる以上、物語としては、「現実」を受け入れるだけで「成長」は完成するのです。このように見る限り、あゆの帰還は祐一の「成長」にとって不要の存在であり、ヒロインたちの帰還は「恋の成就」にすぎません(※10)。もちろん、それはそれで望ましいことですが、祐一の「成長」にとって、ヒロインたちの「帰還」は不要なのです。
結果、ジュヴナイル(「主題」)が要求する物語の「構造」と、ファンタジー(「様式」)が要求する物語の「構造」が、互いに相容れない関係になっているのです。もちろん、完全に矛盾する関係にあるわけではありません。ただ、ファンタジーがヒロインたちの「帰還」を要求するのに対し、ジュヴナイルはヒロインたちの「帰還」を必要要素としていません。『Kanon』は、「主題」にとって不要なイベント(ヒロインたちの「帰還」)を挿入する必要におわれてしまったのです。不要なイベントが入れば、ストーリーの一貫性は失われ、間延びした印象を受ける結果となります。これが否定派の言う「構造」の失敗点です。二つの「構造」を、一つのイベント「機能」によって統合しきれなかったのです。これを以後、『「主題」と「様式」とのねじれが生んだ「構造」上の問題』、略して、「ねじれ構造」と呼ぶことにします(※11)。
これが特に悪い形で現れたのが、あゆシナリオと栞シナリオでした。だからこそ、掲示板であれだけ物議を醸し出すのでしょう。逆に、「帰還」する事で「成長」が完了する物語として比較的、描ききれたのが、名雪シナリオと舞シナリオです。特殊なもので、「帰還」したかしないか関係ないよう「構造」を再構成して成功したのが、真琴シナリオです。これこそ構成の勝利といえましょう。
■ 少女のジュヴナイル
では、祐一の「成長」を阻んだヒロインの「帰還」を、何故シナリオライターはエピローグに挿入したのでしょう。
結論を急げば、シナリオライターは、各シナリオで、もう一つのジュヴナイルを描こうとしたのです。それが、2.でも軽く触れていましたが、ヒロインたちの「失恋」と「成長」です。シナリオライターがファンタジーを選定するにあたって、「いばら姫」など、少女のジュヴナイルと不可分な「様式」を選択してしまった時点で、「どうしてもヒロインたちのジュヴナイルを書きたい」という欲望にとらわれてしまったのでしょう。結局、ヒロインの「帰還」をジュヴナイルという「主題」に取り込めたのが前者で、取り込みきれなかったのが後者です。また、真琴シナリオは、「消失→帰還」のファンタジーと思わせておいて、実は別の形でファンタジーを描くことに成功したシナリオでした。そうする形でヒロイン真琴のジュヴナイルを回避したのが、真琴シナリオ成功の一因です。「鶴の恩返し」に少女のジュヴナイルという「主題」が含まれていなかったのが、功を奏したのでしょう。
あゆは、自らの「死」をもって「失恋」しました。名雪は、祐一の失恋に引きずられる形で、七年前の雪ウサギのシーンで「失恋」しました。栞も、自らの「死の予感」をもって「失恋」しています。舞は、十年前に祐一が来てくれなかったことで「失恋」しました。真琴も、子狐の時の祐一との別れをもって「失恋」しています。そして、エピローグにおいて、ヒロインたちは「帰還」するのです。ここでの「帰還」は、『ONE』の浩平の「帰還」と同じく、ヒロインたちの「成長」の証です。ヒロインたちは現実から消えゆく存在です。これは先ほど、『Kanon』は裏『ONE』であるという形で書きました。そんなヒロインたちにとって、「帰還」する事こそ「成長」の証となるのです。但、真琴シナリオにおいては、前述したとおり、少女のジュヴナイルを回避したシナリオです。
では、何故、名雪シナリオと舞シナリオがヒロインのジュヴナイルとして成功し、あゆシナリオと栞シナリオは失敗したのでしょうか。それは、結局は「演出」の失敗に求められるのでしょう。そもそも、ジュヴナイルの「構造」とファンタジーの「構造」という、二つの「構造」を一つの作品の中で統合しようとした段階で、作品の難易度は桁違いに跳ね上がっています(※12)。それをカバーするには、単純に「演出」に頼るしかないのです。結局、この「ねじれ構造」による、「演出」に対する負荷が、『Kanon』否定派の指摘するところなのでしょう。
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